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Illust


桑原史成「水俣」
─報道写真家 桑原史成の原点─
Shisei Kuwabara - "Minamata"
The Starting point of the work
of the photojournalist, Shisei Kuwabara


 

ヤング・ポートフォリオ
Young Portfolios

 

1998年度(第四回)
Young Portfolios 1998

 

1997年度(第三回)
Young Portfolios 1997

 

1996年度(第二回)
Young Portfolios 1996

 

1995年度(第一回)
Young Portfolios 1995

主 催 :清里フォトアートミュージアム
後 援 :山梨県教育委員会 高根町教育委員会 須玉町教育委員会
     大泉村教育委員会 長坂町教育委員会 小淵沢町教育委員会
     白州町教育委員会 武川村教育委員会 明野村教育委員会
     山梨日日新聞社  山梨放送
協 力 :水俣市立 水俣病資料館

会 期 :1999年10月9日(土)〜2000年1月16日(日)
休館日 :毎週火曜日(7月、8月は無休)
     12月8日(水)・9日(木)、12月31日(金)〜1月4日(火)

図録はオンラインショップにて販売中

開催趣旨

日本を代表する報道写真家・桑原史成(1936-)のデビュー作であり代表作となった「水俣」。桑原史成が初めて熊本県水俣市に入ったのは1960年、23歳の時でした。この年は桑原が東京農業大学と東京総合写真専門学校を卒業した年であり、60年安保で騒然としていた年でもあります。学校を出て、就職をせずフリーの報道写真家をめざしていた桑原が、同年5月の『週刊朝日』の水俣病に関する記事をたまたま見たことが現在の桑原史成の存在を決定づけたと言えるでしょう。



桑原史成

「水俣」
意識も奪われた人形のような少女

1962年


(c)桑原史成
[禁無断転載]

多くのカメラマンが押し寄せた水俣の漁村で、フリーの写真家として現地に一番早く入った桑原は、水俣病によって「生きることの自由を奪われ、廃人にされた患者、生活権を奪われ窮状の漁民の生活の記録」に焦点を絞り込み集中的に撮影を行いました。
 しかし、最初から順調に撮影が出来たわけではなく、桑原の前に待っていたのは恐るべき現実でした。それは、被害者の家族にとっても写されたくない現実であったに違いありません。目をおおいたくなるような悲惨な事実をいかに嫌悪感なく伝えられるか、それが撮影する上での彼の課題でした。被害者が入院している病院を手始めに患者家族の知己を得、撮影を続ける中で、重く暗くなりがちな被写体をいかに美しい映像にするか試行錯誤を繰り返しました。



桑原史成

「水俣」
漁師の患者

1970年


(c)桑原史成
[禁無断転載]


桑原史成

「水俣」
“生ける人形”とも言われた少女

1966年


(c)桑原史成
[禁無断転載]

「“生ける人形”とも言われた少女」(1966年)の輝くような瞳、水銀中毒による「漁師の患者」(1970年)、成人式の晴れ着姿に着飾った「二十歳の智子と父親」(1977年)など数々の記録は、被害者達との信頼関係がなければ出来なかった仕事です。 それらの記録を1962年、個展「水俣病」(銀座・富士フォトサロン)、写真集「水俣病」(三一書房、1965年)として初めて発表しました。同展開催2日目、主催者に対し展覧会を中止せよとの一部財界首脳から圧力がかかりましたが、桑原の写真の大きな意味を理解していた主催者の判断で展覧会は続行され、桑原は写真家として初めて注目されることになりました。その後も展示・出版活動を展開し、桑原の写真は水俣病を世の中に知らせる上で大きな力となったのです。



桑原史成

「水俣」
「成人の日」をむかえ盛大な宴がもたれた

1977年


(c)桑原史成
[禁無断転載]

公害病は、第二次世界大戦で壊滅した日本経済の再建途上において、大きな社会問題となって浮上しました。その中でも最大の被害者を出した水俣病は、有機水銀(メチル水銀)による中毒性の神経系疾患です。1956年5月1日、新日本窒素肥料株式会社(現、チッソ株式会社)水俣附属病院(細川一院長)から水俣保健所に原因不明の疾患が多発しているとの報告が水俣病の公式確認の最初とされています。当時は奇病と呼ばれ、原因もわからず、その後長年にわたる患者と家族の苦しみは、病気との闘いだけでなく、周囲の偏見と差別、貧困、そして原因企業・行政との闘いの連続でした。



桑原史成

「水俣」
網に魚を追い込む漁師

1962年


(c)桑原史成
[禁無断転載]

公式確認から40年後の1995年、関西訴訟を除いて政府解決策に基づき患者五団体とチッソ(株)との間に漸く和解が成立しました。しかし、水俣病の根本的な治療法はなく、多くの患者が今も通院しています。水俣病は終わってはいないのです。

清里フォトアートミュージアムでは「写真を通して20世紀を振り返る」シリーズの一環として、日本の高度成長期における負の遺産に真っ正面から取り組み、報道写真家としての道を確立するに至った桑原史成の「水俣」と、第二の水俣病と言われた新潟水俣病の記録、あわせて約100点を展示し、これらの重要な記録写真が我々に何を力強く訴えかけているのか、そして次世代に豊かな自然を残すためには、今何をするべきかを考える一助になればと思います。

桑原史成プロフィール
1936年島根県津和野町に生まれる。60年東京農業大学、東京総合写真専門学校を卒業後、水俣を皮切りに現在まで、韓国、南ベトナム、ロシアなどを取材。
個展「水俣病」(62年)で日本写真批評家協会新人賞、「韓国」(65年)で講談社写真賞、70年に日本写真協会年度賞、「ドキュメント二人展」(82年)で伊那信男賞を英伸三氏と ともに受賞。
主な出版
「水俣病」(三一書房,1965年)
「水俣病1960〜1970」(朝日新聞社,1970年)
「水俣・韓国・ベトナム」(晩聲社,1982年)
「韓国原影」(三一書房,1986年)
「報道写真家」(岩波書店,1989年)など
主な個展
62年「水俣病」(銀座・富士フォトサロン)
66年「韓国」(銀座・富士フォトサロン)
79年「ベトナム」(銀座ニコンサロン)
80年「生活者群像」(銀座ニコンサロン)
94年「病める大国・ロシア」(銀座ニコンサロン)など

関連イベント

オープニング・レセプション&トーク・セッション in 清里
(オープニング・レセプションはマスコミ関係者及び招待者のみ)

10月9日(土)午後12時30分〜4時30分

【レセプション】
 時間:午後12時30分〜2時
 会場:レストラン ラ・プルミエール(K・MoPA内)
【共同記者会見】
 時間:午後2時〜2時30分
 会場:会議室(K・MoPA内)

【トーク・セッション in 清里】
 日時:10月9日(土)午後2時30分〜4時30分
 会場:K・MoPA音楽堂
 パネリスト:桑原史成
       杉本栄子(水俣病語り部)
       細江英公(館長)
 受付:午後2時〜 K・MoPA チケットカウンター前

  杉本栄子プロフィール
1938年、熊本県水俣市の網元の家に生まれ、3歳の頃から父親に漁を習う。両親、ご主人ともに水俣病患者。父親は1969年水俣病で死去。
漁もリハビリのひとつと語り、現在家族とともに漁業を営むかたわら、 生きることの尊さと水俣病に対する正しい認識を社会に伝えるため、地元水俣をはじめ全国で語り部として活動を続ける。

トーク・セッション in 東京 (入場無料、予約不要)
 日時:10月29日(金)午後6時〜8時(先着190名)
 会場:東京都写真美術館1階ホール(恵比寿ガーデンプレイス内)
 パネリスト:桑原史成
       土本典昭(記録映画作家)
       細江英公(館長)
 受付:午後5時〜 ホール入口にて
    (途中入場も可能です)

  土本典昭プロフィール
1928年、岐阜県土岐市に生まれる。早稲田大学文学部史学科中退。
岩波映画製作所を経て映画監督となる。デビュー作は「ある機関助士」(63年)。「パルチザン前史」(69年)、「水俣-患者さんとその世界」(71年制作、73年度第1回世界環境映画祭グランプリ受賞)をはじめ、水俣病をテーマに連作を発表。記録映画「水俣の図・物語」(81年)により第23回毎日芸術賞を受賞。「ひろしまを見たひと」(85年)など多数のドキュメンタリー映画を手がける。
桑原史成ギャラリートーク (入場無料、予約不要)
 日時:11月13日(土)
     <第1回> 午後1時〜2時  受付:12時〜
     <第2回> 午後3時〜4時  受付:午後2時30分〜
 会場:K・MoPA 展覧会場
    K・MoPA チケットカウンター前にて整理券を配布します。

展覧会図録

展覧会図録(A4変形297×225、24頁 、中綴じ、
桑原史成・収蔵作品全てを収録予価1200円)を制作します。

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