<コンサーンド・フォトグラファーと写真家・久保田博二>
1967年9月30日付ニューヨークタイムズの35面中程に、ニューヨークのリバーサイド・ミュージアムにて開催される「コンサーンド・フォトグラファー」展の記事が掲載されている。
上段の記事は、ミッチェル・ホールというニューヨーク・ハーレムに住む少年のストーリーで、その写真を撮影したのが、現在のマグナム・フォト東京支社代表の写真家・久保田博二である。久保田は当時28歳。早稲田大学政経学部卒業後、写真家を志して渡米し、シカゴ・ニューヨークに6年間滞在していた時である。紙面に同時に掲載されたことは、全くの偶然ではあったが、久保田と「コンサーンド・フォトグラファー」展との深い関係にも触れておきたい。 ? 久保田が、写真家を目指したきっかけとなったのは、1961年、マグナム・フォトの写真家・エリオット・アーウィット、ルネ・ブリ、バート・グリンらが来日した際に遡る。久保田は、彼らの取材にアシスタントとして同行し、通訳兼ドライバーをつとめた。 後に帰国したアーウィットから、お礼に贈られたアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集『決定的瞬間』に魅せられ、また彼らの颯爽とした取材ぶりに憧れ、写真家を目指したのである。一般の国民は未だ海外渡航も自由に出来なかった時代に、(1964年自由化)アーウィットが保証人となって、久保田は、大学卒業と同時に渡米した。ニューヨークに着くとすぐに、アーウィットの勧めでコーネル・キャパの元へ挨拶に向かう。以来、コーネル夫婦は、本当の息子のように久保田の面倒を見、人脈作りをはじめ、経済的にも支えたが、そのことを声高に言うことは決して無かったという。
<「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」>
1967年、久保田は、6年間のアメリカ滞在から日本へ帰国する。コーネルは日本での「コンサーンド・フォトグラファー」展の開催を希望し、久保田にいっさいを任せた。展覧会の日本語タイトル「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題し、主催・毎日新聞社の冠のもと、スポンサーを探し、松屋銀座内の会場を手配し、図録のために写真家・濱谷浩氏へ寄稿を依頼。オープニングには、高松宮妃殿下をお迎えするアンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、濱谷浩夫妻らの写真が残されている。
驚くべきことは、この展覧会でプリントを販売したところ、ケルテスの作品がほぼすべて売れ、4,500ドルもの収益が出たと言うことだ。1968年当時の写真の売買がどのような状況だったかと言えば、アメリカで初めての写真ギャラリー(Witkin Gallery)が誕生したのが1969年。活発化するのは、米国内でさえ1970年代半ばまで待たなければならない。その状況で、ケルテスのプリントが日本で多数売れたという事実と、日本のコレクターの見識に驚かされる。 ケルテスの研究者・ロバート・グルボ氏によると、当時ケルテスは既に世界的な巨匠との名声を得ていたが、同時に“過去の人”という印象もあったことは本人も認識していたという。しかし、日本で作品が売れ、そして、岩波書店からハードカバーの大判写真集が出版されたことを非常に喜び、ケルテスは、日本によって再び写真家としてのエネルギーを取り戻したとグルボ氏は言う。重要な転機となったのが日本であり、ケルテスの初期作品を多く含んだ「コンサーンド」展でもあったのだ。また、3週間の日本滞在中、行動を共にしていたケルテスと久保田は意気投合。「(ケルテスと)写真の話はほとんどしなかった。」と言うが、生涯の親交を得ている。 「コンサーンド」展の終了後、コーネルは、久保田に「(展覧会の収益から)何か欲しいものはないか?」と尋ね、世界一周できるチケット(約1,000ドル)を手にする。これによって、ヨーロッパ、トルコ、レバノン、ヨルダン、サイプレス、インド、ミャンマー、香港を旅し、撮影した。この世界一周の旅は20代の写真家にとって魂を揺さぶられる経験であり、「1963年にワシントンD.C.で見たキング牧師の演説と大行進。そして、この世界一周の経験がなければ、今の自分は無い。」と断言する。「コンサーンド」展は、日本を代表する写真家をも生み出していたのである。 ? <世代から世代へ> ケルテスは、1930年代のパリで、若く才能あるロバート・キャパを支援し、久保田を励ました。コーネルもまた、久保田を支えた。優れた写真家が、若手の才能を見出し、献身的に支えるという“伝統”は、確かに息づいている。フォト・ジャーナリストという仕事が、写真家が単独で成し遂げられる性格のものではないこと、また、とてつもなく大きな物事に立ち向かっているという共通の認識も、おそらくその伝統を強固なものにしているのだろう。 「コンサーンド」展に、最年少で選ばれたレナード・フリードの作品は、展覧会を開催した1967年に撮影したばかりの作品も多く含まれ、才気あふれる若手写真家フリードの爆発的なエネルギーをこの展覧会に組み込むことによって、この伝統を次世代につなげていこうとしたコーネルの強い意志が伝わってくる。 以前に触れたように「コンサーン」(concern)という言葉の意味は、関心を持つこと、働きかけること、繋いでいくこと。「コンサーンド」展がもたらしたものは、社会と深い関わりを持つ写真家にはどのような仕事ができるのか、写真にはどんな力があるのか、写真と写真家の役割についての、それまで以上に強い“意識”ではないだろうか。 戦争の世紀と言われた20世紀。職業写真家たちは戦争へ向かい、人間が引き起こす様々な不条理に立ち向かった。しかし、この展覧会の6人の写真家が捉えたものは、センセーショナルな出来事だけではない。彼らの眼差しが、広く世界に向けて開かれ、土地土地に生きる人々の、日常の営みの中にこそ見える人間性をも等価に捉えていることを、本展はその構成によって示している。激しく社会が変化した世紀の中において、6人が目指したものは、人間が生きることの真価を力強く表現することであり、これらのプリントが、写真集の印刷に使用された後に、処分も散逸もせずに遺っていたことは運命とも思えてならない。人類が、20世紀と今後も向き合っていくなかで、再び世に出るタイミングが、いつかあるはず、と。私たちは、この写真群が、今後50年後も、100年後も変わらず、見る人の心に届き、記憶の中心に留められ、“遺産”として受け継がれていくことを切に願っている。