(1999/08 に同じタイトルの記事を掲載しています。
はじめての方は、まずそちらをご覧ください。)
被爆者の祖父母と父をもつYP購入作家の田中勝さんと、原爆発射装置の研究に携わ
っていた父をもつ現代美術家のベッツィ・ミラー・キュウズ女史が、戦争による
過去の対立を乗り越え、今世紀に芸術による平和の証を残すために開始した
「平和の新世紀」プロジェクト。
東京や、田中さんの故郷・広島での展覧会、学校での講演を終えた田中勝さんに
これまでの事と、今後の展開をお聞きしました。
広島では「平和の時間」という授業がカリキュラムの中に組み込まれていますが、
他の都道府県はこどもたちに、どれほど真剣に「平和」の大切さを伝えているでしょ
うか。田中さんは、広島でさえも20年間同じ内容の授業が続いていることに物足り
なさを感じ、展覧会のための帰省を機に、小中学校で「平和の時間」に講演をし、
2人の活動の意味を話す機会を得ました。
キュウズさんは、1945年、原爆研究のマンハッタン・プロジェクトが行われたアメ
リカ・ニューメキシコ州ロスアラモスに生まれ、半年後、広島と長崎に原爆は投下され
ました。キューズさんの父親は、
「原爆」に関わっていたことに対し、生涯複雑な想
いを抱いていました。多くの日本人の命や、健康を奪ったことに対する後悔とは裏腹
に、戦争集結という正義のために行ったことだと、自らを正当化する気持ち−。あえ
て過去に触れない父親の姿を通し、キュウズさんの中には原爆に対する恐怖と疑問が
年々つのっていきました。
一方、被爆したときは幼児だった田中さんの父親。「ぴかっと光って熱くなった、
あとは何も覚えていない−。」今も足に残る火傷の跡と、拭いがたい心の痛手、家族
にさえ傷跡をかくし、誰にも原爆への想いを語らないまま、50年が過ぎようとして
いました。田中さん自身は、成長の過程で、なぜ原爆が落とされたか、さらに第二次
世界大戦の直接原因となった真珠湾攻撃のこと等の歴史を知るうちに、平和に対する
意識が芽生えていきました。二人の出会いは、相反する立場にあっても「平和」への
強い使命感をもっていたことに共通点があったといえましょう。
今年9月、キュウズさんの活動と平和に対する信念、そして、なによりも被爆
者の立場にたち、過去を悔やむ姿にうたれた田中さんの父親は、初対面のキュウズさ
んに、被爆後はじめて、家族にも長年語らずにいた無念の想いを打ち明け、最後に
二人のプロジェクトを励ましたのです。
田中さんは、これらの経過を広島の小中学生に伝えながら、田中さんの写真と
キュウズさんの絵画をコンピュータ・コラージュした作品を発表し、芸術で平和を表
現すること、芸術自身の面白さを語り、「平和の授業」に新しい風を吹き込みました
。こどもたちの反応は活発で、田中さんの国際的な活動やキュウズさんの国境を越え
た考え方、作品に対する興味など、様々な質問や意見を投げかけ、来年も講演
して欲しいと望んだのです。
「平和の新世紀」プロジェクトは、ユネスコとメセナ協議会の後援のもと1999年
12月7日(真珠湾攻撃の日)から2000年8月6日(広島原爆投下の日)まで
、国内外で多岐に渡る活動を続けます。12月7日に初日を迎えるサンフランシスコ
での展覧会を準備している田中さんのもとに、同市から12月7日を“平和の新世紀の日”
(Peace's New Century Day)として正式に定める方針が告げられました。これは、田中さん
達の活動に賛同した同市がプロジェクト名をそのまま記念日の名称とするものです。
1999年、アメリカが発表した20世紀の100大ニュースの第3位が太平洋戦争開戦の
口火をきった真珠湾攻撃の歴史でした。多くのアメリカ人にとって忘れることのできない
12月7日を平和の日とする声明について、田中さんは「大いなる平和への一歩の
表れで、新世紀への希望を感じています」と語り、キュウズさんのすすめもあり、展覧会
前に真珠湾に趣こうとしています。
そして、アメリカから帰国後は、現在も国同志の争いや内戦で苦しむ国での
展覧会を実現するために、また、将来「広島に平和を発信する拠点をつくりたい」
という希望のために動き出します。
清里フォトアートミュージアムでは、ヤング・ポートフォリオ作家の活動を、友の会
会報やホームページでお伝えします。
1999年10月29日 東京・恵比寿にてインタヴュー
広報担当:小川直美