清里フォトアートミュージアム 学芸員・山地裕子
現在開催中の井津建郎「インド ー 光のもとへ」展では、冒頭にて井津建郎のプラチナ・プリント作品を展示しています。井津が、石造遺跡の撮影を始めたころ、偶然に写真家ポール・ストランドのプラチナ・プリント作品を見て、その色調や繊細なモノトーン表現が、自身の世界観に向いていると感じたことから手がけるようになったそうです。そこで、今回は、プラチナ・プリントの“古典”のなかから、フレディック・エヴァンズの名作《階段の海》をご紹介したいと思います。
自らも文章家であり、オーブリー・ビアズリーやバーナード・ショーなどと親交を持ち、人気の書店を経営していたフレデリック・ヘンリー・エヴァンズ(イギリス、1853-1943)。教会建築を愛し、その美を撮影することに専念するため、エヴァンズは47歳で建築写真家へ転身します。 聖堂内部の石積みの長い階段が、柔らかな光を纏い、波打ち際のように美しい濃淡を見せています。その様子は、まさに「階段の海」。ずうっと奥の扉まで、見る角度によって、ひと続きのように見える階段のうねりと光のヴェールが、写真家の心を掴んだのでしょう。そして、プラチナ・プリント技法は、この微妙なグラデーション表現に最も適しており、滑らかな濃淡の中にも、一段ごとのハイライトが立ち上がるよう、光を正確に描き出すことに成功したのです。この作品は、完璧な美を求めたエヴァンズの代表作とされています。 当館では、エヴァンズの作品を33点収蔵していますが、残念ながら、当館では当該作品を収蔵していないため、当館蔵書の”Frederick H. Evans” (Baumont Newhall著、An Aperture Monograph)からのご紹介です。
エヴァンズの作品は、これまで定期的に開催するプラチナ・プリント収蔵作品展にて展示して参りました。写真は、その中の一点、《ウエストミンスター・アベイ、ヘンリー7世礼拝堂、南側ブロンズ墓碑》1911-12年(イメージサイズ24.6×19.5㎝)です。 エヴァンズは、イメージを切り抜き、台紙に貼り付けているのがご覧いただけますでしょうか。台紙には、鉛筆で写真を囲む繊細なフレームを描き、作品によっては台紙に色を加えているものもあります。それぞれの写真、あるいは建築様式にふさわしい装飾として自ら施したのでしょう。 以前、あるギャラリーで、日本刀の鍔(つば)を撮影した数十枚のプリントを一冊に綴じたエヴァンズの作品を見たことがあります。限られたスペースの中に個々の異なる世界を彫り出すという精緻な技に魅せられたのでしょう。鍔は、日本の古美術としてイギリスで人気が高く、それらが市場に散逸する前にすべてを記録したのではないかと思います。美しい建築空間やすぐれた職人技を深く尊敬していたエヴァンズは、被写体が最も美しく見える光を纏わせ、その姿をプラチナ・プリントに残したのです。